社会の未来を考えたいブログ

色んなテーマについて多くの発信をしていきたいと思います。

「働く」の歴史と現在・未来に向かう働き方を考える

「働く」の歴史と現在・未来に向かう働き方を考える

 

:働くとは何か~自然と社会と個人の関わりが働く必要性を生む

働くとは、何でしょうか。農業のように自然と向き合う仕事があります。工場のように物を加工する仕事があります。それらが作った商品を運ぶ仕事があります。運ばれた商品を仕入れて消費者に売る仕事があります。そして飲食店・本屋・公務員・エンターテイナーなど、地域や社会の必要に応えてサービスを提供する仕事があります。

 

何のために働くか、多くの場合は生活していく為のお金を稼ぐために働いている人が多いです。誰しもが高い給料を得られるわけではないのですが、自分の素質や生活スタイルを実現する為に都合のいい仕事かどうかも重要だと考えられています。

 

仕事とは、どんな形態であれ他人の希望や期待・必要に応えて行います。すると、自分一人の知識や経験を超えて他人と協力したり学んだりして、自分自身がより一層の成長を実現するきっかけとなります。それは報酬があってもなくても同じことで、仲間やお客様の約束や期待に出来るだけ近づく試行錯誤も、人としての成長の糧になります。

 

:働くの歴史~働かないという社会参加も可能~生きるという交換不可能な価値

18世紀にイギリスで始まった農業革命と産業革命は、人の働き方を徹底的に覆します。それ以前の農業にせよ産業にせよ、仕事の根幹は人間そのものであり、素質や能力に応じてどんな人でもやれる仕事の種類や量を選ぶことが出来ました。例えばエジプトのピラミッドの建設はほとんど人力で行われましたが、働く人たちは好きな時に好きな仕事をして報酬を貰っていたと言われています。それで巨大なピラミッドが完成しているのですから、現代においても通用する働き方なのではないかと思います。

 

現在の21世紀の世界において、特に先進国では働き方についての価値観が歪められてきたのではないでしょうか。その価値観は発展途上国後進国にも確実に広がり、「生産性という化け物」とでもいうような労働観経営観が暴走していると言っても過言ではありません。

 

日本語の「過労死」という言葉は「KAROUSI」という言葉になって世界に知れ渡っています。しかも、「death from overwork(過剰な労働がもたらした死)」と訳される過労死は、工業化の進んだ国では必ず起きていて日本だけの問題ではないという現実があります。極端に死だけを取り上げなくても、鬱や統合失調症など精神疾患に至って働けなくなる人の数が多いという現状も存在し、実質的には公害に等しいのではないでしょうか。

 

目先の利益の為に従業員を潰すほどの過剰な労働を強いる企業文化は、いずれ淘汰されなければなりません。その為には新たな働き方の思想が作られて広まらなければなりません。それは想像するだけでも大変な作業に思えますが、生きる意味と働く意味を区別して個人のライフスタイルを尊重した働き方改革が実現しなければ、まさに「生産性という化け物」によって社会は成り立たなくなるという危機感を覚えます。

 

 

 

 

:働かない自由という選択~とてつもない豊かさの裏で過労死するくらいならば

そこで、「働かない自由」というのを積極的な意味で行使するという選択があります。一人一人が自分の判断で「働かない自由」を行使すれば、歪んだ社会に対する特効薬になると考えています。あるいは劇薬かも知れませんが、「生産性という化け物」はどうしても克服されなければいけません。いくら労働者を酷使して下請叩きをして利潤を上げても、それが社会と人間を破壊しながら社会福祉費を増大させているのであれば、企業活動というのは社会のガンでしかないようにも思えてきます。

 

:働き方の理想は人それぞれ~お金以外の働く意味とメリット

働くのは社会とのつながりを得る為でもあります。楽な仕事をしながら趣味に全力投球したり、仕事そのもので自分を研鑽する生き方、または難易度の高い仕事をこなして高い報酬を得る、家族を養う為に一生懸命働く、理由は一見して様々に思えますが、根本的には「持続可能な生活」が根底にあります。また、ニートや引きこもり・介護離職や障がい者など、働けない人が直面する多くの問題も「持続可能な生活」という視点から考えると共通点を見出せるように思えます。福祉だけに頼るのではない、あるいは福祉の一環としての働くという手段がこれからの時代に求められるのだろうと思います。

 

自己実現の選択肢の一つとしての働く~働きたい意思をインクルージョンする

昨今、働き方改革という政策が掲げられてから、「お金の為に働く」から「人生の為に働く」という方向性が社会で認知され始めているような気がします。若い世代は働く事に新しい価値観を見出そうとしているのではないでしょうか。少なくとも、昭和や平成の社会を動かしてきた価値観が今の若い世代にはなじみが薄くなっているようで、「最低限の働きで必要なお金を得て人生を楽しむ」という生まれながらの隠居のような意見も出始めています。過疎地で住民から仕事の依頼を受けて生活する元ニートや元引きこもりをニュースで見て、ゆっくりではあるけれども働くを目的ではなく手段と捉えて仕事に依存しない人生を送るのが一つの答えなのかもしれません。

 

「そんな甘ったれた考えでは社会で通用しない」などとする意見もありますが、一面では真実であろうと思います。しかしそれも「社会を変えることはできない」という前提に立っている時点で、社会と向き合う気のない人にしか言えない言葉でもあります。だから、「そんな甘ったれた考えでは21世紀で通用しない」と言い返してしまいましょう。価値観の合わない環境を強制される時代は終わるべきです。私はそう思いますが、あなたはどう思われますか?