社会の未来を考えたいブログ

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どこまでが自己責任か

 

自己責任とは何でしょうか。世間で言われている意味では、正しい情報に基づいて自由に判断して行動した結果について、本人が責任を負うという考え方です。例えば、買い物・遊び・就職などは、普通は強制されずに選ぶものです。

 

ですが、正しい情報・自由な判断・自由な行動という三点セットがいつも十全にあるとは限りません。

例えば、

 

・不正確な情報

・強制された判断

・意に沿わない行動

 

このような状況において、本当に自己責任が成り立つと考えるのは、上辺は自由でも実際には自己責任を問うのが厳し過ぎます。

社会では、必ずしも三点セットが揃わないまま決断する状況は珍しくありません。仕事でも遊びでも買い物でも、「よくわからないけどやってみよう」というチャレンジ精神、フロンティアスピリッツが世の中を動かすことは多くあります。そういうリスクを背負って試行錯誤する場合も、自己責任の範疇、まさしく自由です。

 

一方、格差社会社会福祉の切り捨てを正当化する意味で自己責任という言葉が使われる場合があります。特にひどいのは「出生前診断で障がい児だと分かる時代なのだから、そういう子供を育てる気になったのは自己責任」という言説です。誰も人間として、人間の命について価値を決める資格がない、またあるべきではありません。自由とは人類の共存の上に成り立つものであるからして、他人の生きる自由を否定する言説は自由を徹底的に踏みにじる究極の暴力にしかなりえないでしょう。そこには逆に、自己責任は成立し得ません。犯罪的な言動は公共の場で、社会の責任によって裁かれるべきです。

 

格差の問題も同じことで、お金のあるなし生産性のあるなしと人間そのものの価値を混同してはなりません。人間社会は道徳と経済によって成り立っています。日々の生活において経済は人間の日常生活や生存に欠かすことのできない重要なものですが、対して道徳は文明の行き過ぎにブレーキをかけて持続可能な社会の実現を目指す方針を提供します。食品ロスの問題を例にすると、経済的な利益を追求する為には廃棄するほど発注すべきとなる所が、道徳的な視点では余りに野放図な利益追求の発注は環境負荷やモラルの問題が見えてきます。

 

貧困を経済と道徳それぞれの視点から見ると、そこに自己責任を見出す余地はどれほどあるのでしょうか。貧困を自己責任だとすると、貧困している人達の多くの人達は自ら過大なリスクを負って失敗したか、何か悪い事をした、怠けていたらそうなった、というような積極的に自由を行使した結果で貧困に陥ったのでしょうか。統計などを見ると、経済性本位の社会に振り回されていつの間にか貧困に陥った人が多いように感じます。それは自己責任ではなく、社会の責任として考えられるべきです。

 

自己責任とは、とても便利な言葉のようにも思えます。社会について真剣に考える気のない人たちの無責任さを覆い隠す免罪符として通用している気がします。他人をして自己責任だという人の自己責任は、誰が考えるのでしょうか。真面目に生きている人達の自由を踏みにじる言説は許されてはいけません。