社会の未来を考えたいブログ

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自由とは

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自由とは何でしょうか。Wikipediaによると

 

「自由(じゆう)とは、他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うことをいう。哲学用語。」

 

言い換えると、自分だけが自分の事を決められる、自分以外には自分の事を決めさせない、という事になるのでしょうか。しかし、「自分」を「会社」や「都道府県」「市町村区」「国家」「人類」に置き換えることもできます。「自由な人間」・「自由な会社」・「自由な自治体」・「自由な国」、これらはそれぞれ一つづつなら簡単に想像できますが、自由な存在が二つ以上ある場合には、途端に難しい話になります。そして、現実の世界においては複数の自由な存在が同時に活動しています。

 

自由とは何か、を問うた場合、多くの人は「会社や社会に束縛されずに自分のやりたいことをする」をイメージすることが多いのではないでしょうか。極端な場合には「法律も何もかも無視して好き勝手にやるのが自由」という考えの人もいます。

 

それらに対して言われるのが、「多くの人がルールを守ってこそお互いにメリットがある」「一人で何もかもやるより協力し合った方が上手く行く、その為に個人の自由は制限されるのは仕方がない」など、人間同士が助け合って生きる為に、ある程度の不自由は当然の事である、という意見です。

 

本物の自由とは何でしょうか。結論から言うと、「自由にやる」「不自由を受け入れる」、この二つの繰り返しが自由ではないでしょうか。二つ合わせて「一人で何もかもやるか、協力し合ってやるか、選ぶ自由」というのが、人間らしい自由なのだと思います。

 

現代の人間が社会の不自由を受け入れる理由は、まず「便利であるから」です。法律もルールも、効率的な社会で多くの人が豊かに幸せに生きる為にあるものです。一方で、間違った法律やルールを変える時には、どう変えたら正しい決まりになるのかを考えるのは人間です。法律やルールを変える以上は、法律やルールに縛られたままではおかしい事になります。「法律やルールを変える」という作業は、「自由に判断できる人間」でなければ不可能です。

 

世の中には「完全な自由」は存在しません。しかし、「完全な不自由」はあり得ると思います。「不自由を拒否して、自分の欲望以外には自分を支配させない人間」は、自分の欲望が満たされない限りは自分の欲望を満たそうとし、邪魔者は全て敵として攻撃せざるを得ません。自分が絶対に不自由を受け入れられない以上は、自分の欲望を否定する人と折り合いを付けるのは不可能だからです。その内に他人と協力することに対する関心がなくなり、最悪の場合には「働く」という選択肢は完全に消え去ってしまいます。すると、「働いている奴より俺は自由だ」という歪んだ優越感に囚われて、「(自分は社会を馬鹿にしているのに、)自分を馬鹿にする社会は許せないと感じる」などと考える、想像を絶する人物に成り果ててしまう危険性もあるでしょう。そう考えると、「完全な不自由」とはどんな物かが、輪郭だけでも想像できるのではないでしょうか。

 

社会に生きる人の大多数は、社会と何かしらの折り合いを付けて生活するのが大事だと考えているようです。「不自由」があるから「自由」の大事さが分かる、「自分の欲望に引きずられない自由な生き方」が出来るのだと思います。