社会の未来を考えたいブログ

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生活保護と社会の関係について

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生活保護とは何かを簡単に述べると、「最低限必要な生活の提供を目的とする、社会福祉を実現する諸政策の内の一つ」となります。生活保護とは生活を成り立たせる為の生活費の支給をベースとして、ハローワークと連携して就職活動をサポートしたり、家庭訪問などで生活の指導や助言をする、福祉事業所や医療と連携して生活と健康を援護するなど、受給者の生活実態に合わせて様々な支援を行います。マスメディアが取り上げられる生活保護の情報は、支給される保護費のみにスポットライトを当てて、世間一般の人たちの生活保護に対する誤解を招いています。

 

日本国憲法によれば、

「第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」

とあります。

 

現行の日本国憲法は戦後の反省から作られています。何故なら、歴史上から現代まで、貧困の放置と拡大は社会の分断と良識の消失を引き起こし、最悪の場合には侵略戦争や内乱、世界大戦にまで至るからです。社会福祉の充実が平和を維持する為に必要不可欠なコストであるのは、大げさでも何でもない事実です。

 

まず、生活保護を受給する人々は、大きく4つに分かれます。「高齢者世帯」「母子世帯」「傷病・障害者世帯」、そして「その他の世帯」です。例えば、マスメディアがこぞって取り上げたがる「働く能力があるのに生活保護を受けている人々」とは「その他の世帯」に含まれています。2008年のリーマンショックをきっかけに、多くの失業者が出たのが大きな要因と推測されます。「その他の世帯」は2008年時点で12.2%であったのが、2013年には28.8%と割合を倍に伸ばし、それ以降は現在まで、緩やかなペースで減っています。

 

生活保護の開始に至る理由は、ほとんどが社会問題や行政制度の欠陥を背景にしています。景気の動向や貧困の連鎖・少子高齢化の進行による身寄りのない老人の増加など、自己責任として個人に帰するには複雑な要因が必ずあります。よしんば怠惰による無業が原因であったとしても、遅々として解決されない労働問題や硬直的な企業文化などを嫌って就職への意欲を失くしている可能性も、要因として否定できません。

 

貧困や無業に陥った人に対して自己責任という言葉を押し付ける人は少なくありません。しかし、自己責任という事を言うのであれば、社会はなおさら最善を尽くす責任があるのではないでしょうか。貧困層の拡大は社会に直ちに悪い影響を与えます。貧困を放置するのは、短期的にも長期的にも良い選択にはなりえない事です。

 

職業選択の自由と言いながら、暗黙的に働ける人を厳しく選別しているのが現状ではないでしょうか。利益や効率を重視して働く人間の個性を無視する働き方が主流の現代社会は、有能な人でも辛い過酷な条件を押し付けられ、精神障害や過労死にまで至るケースがあります。その環境についていけない人を落伍者と見なす無責任な社会が、働けない人に対して自己責任を問う資格は無い筈です。価値観が多様化する社会のメリットだけを利用しながら、仕事においては多様性を認めないという社会の態度は、極めて無責任ではないでしょうか。無業でも仕事を選ぶ権利はあります。バブル崩壊以来、労働争議としてストライキが行われることはほぼ無くなりましたが、「働きたくないから働かない」というのは、もしかしたら新しいストライキの形式なのかもしれません。それでも働くべきだというのであれば、社会は個人に対して働く場を提供する責任と義務があります。まして戦時中でもないのですから、一方的な強制ではなく、個人の尊厳を尊重した提案であるべきです。