社会の未来を考えたいブログ

色んなテーマについて多くの発信をしていきたいと思います。

精神障がい者の職域開拓が社会を変える

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最近、国会では「ホワイトカラーエグゼンプション」が話題になりました。報道の内容としては、議論のベースとなるデータが正確ではないという事でネガティブな報じられ方をしましたが、働き方の多様性を模索する動きは今後も加速していくでしょう。

ダイバーシティ」「インクルージョン」「ノーマライゼーション」などの概念が広まりつつある中、障がい者・マイノリティ・貧困層などについても、「働き方改革」は重要な意味を持っています。現在は健全な社会参加を妨げられている人たちにとって、社会参加の機会が多くなれば苦境を乗り越えるチャンスも多くなります。その為に目指される取り組みの一つとして、社会全体での職域開拓が必要です。

実際に、CSRcorporate social responsibility 企業の社会的責任)という考え方から、様々な取り組みが行われています。厚生労働省による法定雇用率の引き上げが行われ、最近の景気動向が良いという事もあり、障がい者を積極的に雇用する動きが増えていっています。成功事例の報告も多くなっていますが、今なお職域の狭さの問題や職場定着に向けた課題も増えています。

 障がい者の生産年齢人口は324万人で、その内で就職しているのは49万人とされています。数を考えると、これからも就職する障がい者は増えていくのは間違いありませんが、一方で発達障害を含む精神障がい者など、新しいタイプの障がい者もいます。身体障がい者や知的障がい者のようにノウハウの蓄積が無く、障がいの状態も外から分かりにくい精神障がい者は、医療的にも発展途上の状態であり、その支援の仕方について試行錯誤しながらの取り組みになっていくと思われます。

そこで問われるべきは、「障がい者が社会で働く必要性」の認知です。その主体は障がい者であると同時に、社会も主体になります。労働者と使用者で互いにメリットがあってこそ職業生活は持続するので、雇用される雇用するという形式以上に、企業(または官公庁)の生産性に寄与してこそ、本当の社会参加と言えます。

近年、パソコンやスマホなどのIT技術の進歩と普及により、障がい者にとって仕事をするハードルが下がっています。また、農福連携などの取り組みが進み、障がい者の職域が広がっていく可能性は高いでしょう。障がい者の社会進出が進むことにより、障がい者QOL(生活の質)が福祉に依存しきりでない自立により支えられ、企業にとっては労働者を確保する機会が増えるというメリットがあります。これらを実現する為には双方の努力が必要不可欠ですが、実現する事による社会的な利益は大きなものになります。

企業が雇った障がい者に対して合理的配慮をすると共に、障がい者もビジネスや業務に耐える人材として積極的に仕事を学んでいき吸収する心構えが必要です。一人の熱意一社の理念が社会を変える力として認識されれば、世の中に良い影響が波及していくという「良い連鎖」に繋がっていくと考えます。

楽しい仕事とは

楽しい仕事とは何でしょうか。仕事と見返りはセットですが、多くの人がイメージするのは「お金がもらえる仕事」です。ですが、「お金がもらえない仕事」もあります。最たるものは家事、他には社会貢献やボランティアなどがあります。

 

お金でペイしないからと言ってもやる必要を感じられる仕事なら、やりがいを感じる人はいます。家族のために家事をする、マンションの管理組合で役職を持つ、災害があった時に被災者を助けにいくなど、目に見える成果や責任感がある事で、人は楽しく働けるのだと思います。

 

世の中で働いている人の多くは、生活の必要として給料の貰える仕事に従事します。あるいはやりがいを感じるとか、社会に必要とされているという責任感で仕事を選ぶ人もいます。大人として仕事をするのは当然、能力を発揮して人の役に立つのが楽しいなど、インターネット上でも様々な意見があります。

 

しかし社会の中で、体調を悪くしたり向かない仕事で無理したりして、いったんは就職しても働くことに挫折する人達がいるのも現実です。ひきこもりやニートが社会問題になっていますが、各人が抱える理由や事情は同じではなく、ステレオタイプ的に怠け者として切り捨てるのは社会として無責任です。

 

効率重視の社会が始まったのは、イギリスで産業革命が起こってからだと言われています。多くの問題が持ち上がって解決が図られてきた歴史はありますが、産業革命当時の人間を取り換え可能な部品と考える悪い文化は、現代の日本でも見受けられます。給料をちゃんとくれるなら効率重視で構わないという人もいますが、人格を否定されてまでお金なんか欲しくないという人もいます。仕事=お金、という考え方は、万能ではないと考えざるを得ません。

 

考え方を逆にして、お金を期待しなければ楽しさ優先の働き方もありえるのではないでしょうか。それぞれの能力や希望に合わせた仕事を社会が提供して、本人にとってやりがいのある仕事があれば、本人だけでなく家族や地域のQOLも上がります。それをきっかけにして就職に繋がる実績を得たり、社会の変化に置き去りにされる事を防ぐ効果も期待できるでしょう。

 

お金は所詮は物ですから、人間のプライドを本当には満たしません。お金以外にやりがいを見つけた時に、本当の社会参加を果たせるのではないでしょうか。

『嫌われる』という現象について

嫌われる、とはなんでしょうか。

 

thesaurus.weblio.jp

蛇蝎のように嫌われる  忌み嫌われる  忌避される  爪弾きにされる  タブーにされる  タブーとされる  タブーと見なされる  蛇蝎のごとく嫌われる  毛嫌いされる  嫌悪される  嫌悪感を抱かれる  目の敵にされる  つまはじきにされる  ひどく嫌われる  嫌がられる  疎まれる  遠ざけられる  嫌われる  煙たがれる  避けられる (上記リンクより引用)

 

類語を調べると、色んな言い方があるようです。例えば、「蛇蝎のように」「嫌悪される」「忌み嫌われる」など、厳しい表現があります。これが人間関係であれば、いずれの言葉でも、信頼関係が成り立ちにくいか破綻しているように思えます。

人間関係における原因として、気持ちが悪い、迷惑をかけられる、不愉快である、薄気味悪い、など、「一緒にいたくない人物」とみなされると、いわゆる「嫌われる人」になるようです。

「蛇蝎のごとく」という言葉に着目すると、「動物のように、自分の感情や都合だけが生活の全て」というような場合が、一番顕著に嫌われるのだと思います。具体的には、「ストーカー」のように、相手の意思に関係なく自分の欲求や都合を絶対視する人が、典型的ではないでしょうか。「彼女はツンデレで、僕の事を本当は好きなのに上手く意思表現できないから、教えてあげなくてはならない」などと、相手の意思を自分の都合のいいように捻じ曲げて自分を顧みない人になると、周囲は彼を同じ人間と思わなくなる、それが「嫌われる」という現象の一つの構造ではないでしょうか。

最近では人間関係を理由にした離職が注目されています。人間関係という理由を大まかに考えると「職場に嫌いな人がいた」「職場で嫌われた」という二つが大きいように思えます。職場とは事業に貢献する目的を同じくした人が集まる場であり、友達同士の集まりとは違う場です。半ば公共の場所である職場で、マナーや道徳を弁えない人が働き続けるのは難しく、いくら能力があっても職場の紐帯に傷を入れる事が多くなるでしょう。

誤解が原因で職場に居づらくなるというのもよく聞く話ですが、あまりにも誤解が立て続くようであれば、自分自身に何らか原因を求めるのも必要なのかもしれません。少なくとも「マナー違反は犯罪ではないから許される」という考えは軽蔑の対象となっても仕方がない事です。「薄気味悪い人物」を言い換えると、「理解不可能(理解したくない)な人物」と言っても過言ではありません。そういう人間が、自分自身についてどう考えているのか、想像するのは大変難しい事です。おそらくは自分に対して無批判なのだろうと推測する以上には理解し難い所です。

現代社会は、物質的に大変に豊かになりました。「衣食住足りて礼節を知る」という言葉を、今一度考えてみる必要があると考えます。

LGBTのQOL(性的マイノリティの生活の質について)

LGBT(性的マイノリティ)の概念が世に広く知られるようになって、久しくなります。未だに差別や偏見が根強いとされていますが、一方でLGBTが加害者となる性的暴行や、同性に対するセクハラ紛い、あるいは失礼な態度など、LGBT側に道徳や倫理・マナーが欠けていると言わざるを得ない事件も広く認知されるようになりました。

QOLというのは、社会が個人に対して一方的に与える物ではありません。個人が自らの個性によって望む生活を得る事が、必要不可欠です。

特に人権という仕組みの中でQOLを高める為には、社会貢献により良い社会作りの実現に参画する必要があります。人権とは万人が万人に対して保障する権利であり、約束です。LGBTに限らずマイノリティ全般において、差別を無くす、偏見を払拭するという目的を目指すためには、「自らが担う義務を自由に選択し、人間として基本的人権の根拠となる主権者たり得る」という矜持が必要です。特に、マイノリティなセクシャルが病気ではないのであれば、まず第一に正すべきは、道徳・マナーを身に付けるという次元であると考えます。

性的な醜聞は何もLGBTなどに限らずあります。セクシャリティとして最も多い異性愛者については言うまでもなく、「恋愛の自由」を標榜して聞くに堪えない事件を多く起こしています。不特定多数との性的交渉は性病拡散や望まぬ妊娠のリスクを上げ、道徳的な頽廃と同時に医療保健の分野における問題の温床となっています。同性愛者においては妊娠のリスクはないとしても、独特な性交渉の方法による性感染症の蔓延が異性愛者よりも高いリスクがあるとされています。「妊娠しないからコンドームは不要」という浅はかな考えが背景にあるという判断をしても、的外れではないでしょう。

LGBTに対する差別偏見の根強さや嫌悪感は、LGBT自身にも責任を帰するべき部分があると思えます。その要因の一つとして、例えば「LGBTによるLGBTの為のLGBTが呼び掛ける道徳」というような発想、または「LGBTが提案する道徳と人権へのコミット」という運動が無いと思えるほど、LGBT自身の義務と道徳について論じられる事はありません。

人権とは何か、繰り返しになりますが「自らが担う義務を自由に選択し、人間として基本的人権の根拠となる主権者たり得る」と私は考えます。今現在のLGBTの状況について、あまりにも「LGBTの人権」というのが片務的に強調されていて、LGBT自体がLGBTのあるべき振舞いについて何かを考えようという機運が無いのは、LGBT愛玩動物に等しい存在にしてしまうでしょう。

誤解が無いように言えば、LGBTは真っ当な人間である、そこに異論はありません。ですが、総じて道徳の欠いた人間でないかどうかは分かりません。今後においていつまでも同じではないでしょうが、マジョリティが一方的に与える人権が正解とは、釈然としない所です。

話は尽きない所ですが、続きは次の機会にしたいと思います。

法律が無ければしてもいい、処罰されなければ大丈夫という考え方

社会には、浅ましい考え方をする人が多くいます。中でも目立つのが「法律が無い、法律に違反していない、法律を無視しても処罰されない、現在の法律では処罰できないからOK」という、考え方です。例えば、フリマサイトで現金を売る、著作権者に無断で作品をインターネット上にアップロードして営利利用する、政治家に対して「死ね」などと暴言を吐く、消費者向けの商品を買い占めて転売する。これらは現代社会の価値観にそぐわない事だと思います。

 

法律だけを善悪の基準にしてしまうのは、とても危険です。法律とは過去に起こった出来事を根拠にして定められる場合が多いですが、人間は現在に生きています。人生はマニュアル通りにいかず、往々にしてイレギュラーな事態が発生します。その時に目先の利益に釣られて「犯罪にはならないし良いだろう」という考えでは、ある意味で動物にも等しいような存在として見られるかも知れません。実際に、そういった言動で社会的信用を失う人や団体は多くあります。最近では、相撲協会漫画村・転売屋・社会運動家など、法律違反ではないにせよ常識や道徳を欠いた不祥事で信用を落としたりしますし、また未来において刑事事件や民事事件・社会的制裁が有り得ないとは言い切れません。その言動に不愉快さを感じたり迷惑を被る人が増えれば、法律ないし不法行為として痛烈な社会的制裁を受ける可能性は高くなります。

 

また、心肺停止した女性にAEDの処置を行う為に服を脱がせた男性が強制わいせつで訴えられる、というデマがツイッターを中心に広まりましたが、これに対して意見を表明した人の多くは「法律の方がおかしい」と考えたようです。実際の法律の運用としては、救命行為として認められる場合に強制わいせつの要件は満たさないという見解を述べる弁護士が多いようですから、現実において何らかの処罰があるわけではありません。

 

障がい者の就労の現場では、昨年から「就労継続支援A型事業所」について、厚生労働省による大きな方針転換があり、話題になりました。補助金目当てで設立された存在意義の無いA型事業所が大変に多かった為に、厳しい指導が入りました。これは「法律で処罰されない」という考えに基づいて数年に渡って蔓延していた問題で、現場を知っていればもっと早く対応できたのではないかと思います。常識的に考えておかしい話が、必ずしも法律で規制されているとは限らないという、典型的な事例です。

 

善悪という観念は、人間らしさを考える上で重要だと思います。社会に生きる上で、自分で決断しなければならない局面において、必ずしも法律が何とかしてくれるわけではありません。法律はドラえもんではないのです。22世紀の法律でなら解決するかもしれませんが、私たちは21世紀に生きる人間ですし、民主主義社会では法律に対して最終的な責任を持つのは国民です。21世紀の法律は現在に生きる私たちが決めるのであって、天や未来から法律が降っているのではないのです。

 

何事にも、浅知恵で生きている自分が賢いと思い込んでいる人はいるものです。上辺だけ取り繕って、本質を何も分かっていない、自分を疑って反省する習慣のない人は、いずれ周囲にとっては関わってはいけない人になるでしょう。人間は法律の奴隷ではありません。そういう人にならないよう、気を付けたいものです。

歴史に学ぶ意味と目的

歴史とは何か。簡潔に言うと、動物の中で人間だけが学ぶことのできる知恵の一つです。動物は遺伝や本能によって学習し成長しますが、人間は遺伝や本能以外にも記号によって他人の経験を再体験して学習します。動物にはこれが出来ません。

 

歴史を学んでも意味がないという人は多いです。生活水準が低い、喋る言葉も違う、道徳観念が遅れている、科学技術が発展した現代には通用しない。歴史を学ぶ必要がないという人たちは、時代の変化を盾にしてかたくなに拒否します。

 

一方で、孫氏、マキャベリ宮本武蔵など、ビジネスマン向けに人気のある古典は数多くあります。これらは昔の人が書いた本でありながら、現代のビジネスにも通用すると考えられています。何故なら、千変万化する状況で目先の事に振り回されずに目的を達する戦略、つまり方法の選び方を著しているから、数百年数千年経っても社会に通用するのです。

 

古典なんか例外で、歴史そのものを学ぶ意味はないという人もいます。そういう人は、歴史上でも多かったと思われます。ですが、有名な古典を理解するには書かれた当時の社会背景や事件情勢を知って、初めて古典を理解したことになります。

 

経済・農業・化学・医学などの様々な学問は複雑に絡み合いながら、時代の必要に応じて発展してきました。歴史を大切にするあまりに斬新な発想が排除されるケースと同じくらい、歴史を正しく学んで切り開かれた分野も多くあります。

 

産業革命以来、当時は10億人程度だったとされる世界人口は現在70億人を超えています。史上かつてない事です。だからこそ、歴史を学ぶ必要も高まっています。発展途上国では現在、先進国がある程度克服した社会問題について、同じように苦しんでいます。歴史を学ばずに科学技術の方法だけ学んで、歴史を軽視したからとも言えます。

 

歴史は繰り返すと言いますが、悲劇に限った話ではありません。良い話を繰り返し、悪い話を繰り返さない、という学習を集団で共有するために、歴史は必要になります。それが歴史を学ぶ本来の理由です。歴史を失った科学技術や経済理論は、必ず暴走して核兵器のように人類の平穏を脅かします。歴史がある事で、人間が人間らしく生きていけるのだということを忘れてはいけません。

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はじめましての人ははじめまして。山田です。

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障がい者による新しい納税、無水掘工法で第三の雇用の場創出

 

NTP事業所では「障がい者の働きたい」をテーマに情報発信を行っていますが、このブログでは特定のテーマに限らず、様々な雑感や社会問題などを発信していきたいと思います。

 

何故ならば、全ての社会問題は一見関係ないように思えても、実は繋がっていると感じるからです。

 

いま私たちが生活している社会では、多くの問題があり悩んでいる方は多くいます。様々な理由と事情で苦しい生活を強いられている人の問題を共有して考えることは、ひいては社会を良くして、同じ社会で生活する私たちの生活を向上させると思うのです。

 

このブログも社会という大海に投じるにはあまりに小さい石ですが、多くの波紋が重なる事で社会を変える波になると信じています。

 

まずは、ご挨拶まで。