社会の未来を考えたいブログ

色んなテーマについて多くの発信をしていきたいと思います。

生活保護と社会の関係について

f:id:cloud_mill:20180413115022p:plain

生活保護とは何かを簡単に述べると、「最低限必要な生活の提供を目的とする、社会福祉を実現する諸政策の内の一つ」となります。生活保護とは生活を成り立たせる為の生活費の支給をベースとして、ハローワークと連携して就職活動をサポートしたり、家庭訪問などで生活の指導や助言をする、福祉事業所や医療と連携して生活と健康を援護するなど、受給者の生活実態に合わせて様々な支援を行います。マスメディアが取り上げられる生活保護の情報は、支給される保護費のみにスポットライトを当てて、世間一般の人たちの生活保護に対する誤解を招いています。

 

日本国憲法によれば、

「第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」

とあります。

 

現行の日本国憲法は戦後の反省から作られています。何故なら、歴史上から現代まで、貧困の放置と拡大は社会の分断と良識の消失を引き起こし、最悪の場合には侵略戦争や内乱、世界大戦にまで至るからです。社会福祉の充実が平和を維持する為に必要不可欠なコストであるのは、大げさでも何でもない事実です。

 

まず、生活保護を受給する人々は、大きく4つに分かれます。「高齢者世帯」「母子世帯」「傷病・障害者世帯」、そして「その他の世帯」です。例えば、マスメディアがこぞって取り上げたがる「働く能力があるのに生活保護を受けている人々」とは「その他の世帯」に含まれています。2008年のリーマンショックをきっかけに、多くの失業者が出たのが大きな要因と推測されます。「その他の世帯」は2008年時点で12.2%であったのが、2013年には28.8%と割合を倍に伸ばし、それ以降は現在まで、緩やかなペースで減っています。

 

生活保護の開始に至る理由は、ほとんどが社会問題や行政制度の欠陥を背景にしています。景気の動向や貧困の連鎖・少子高齢化の進行による身寄りのない老人の増加など、自己責任として個人に帰するには複雑な要因が必ずあります。よしんば怠惰による無業が原因であったとしても、遅々として解決されない労働問題や硬直的な企業文化などを嫌って就職への意欲を失くしている可能性も、要因として否定できません。

 

貧困や無業に陥った人に対して自己責任という言葉を押し付ける人は少なくありません。しかし、自己責任という事を言うのであれば、社会はなおさら最善を尽くす責任があるのではないでしょうか。貧困層の拡大は社会に直ちに悪い影響を与えます。貧困を放置するのは、短期的にも長期的にも良い選択にはなりえない事です。

 

職業選択の自由と言いながら、暗黙的に働ける人を厳しく選別しているのが現状ではないでしょうか。利益や効率を重視して働く人間の個性を無視する働き方が主流の現代社会は、有能な人でも辛い過酷な条件を押し付けられ、精神障害や過労死にまで至るケースがあります。その環境についていけない人を落伍者と見なす無責任な社会が、働けない人に対して自己責任を問う資格は無い筈です。価値観が多様化する社会のメリットだけを利用しながら、仕事においては多様性を認めないという社会の態度は、極めて無責任ではないでしょうか。無業でも仕事を選ぶ権利はあります。バブル崩壊以来、労働争議としてストライキが行われることはほぼ無くなりましたが、「働きたくないから働かない」というのは、もしかしたら新しいストライキの形式なのかもしれません。それでも働くべきだというのであれば、社会は個人に対して働く場を提供する責任と義務があります。まして戦時中でもないのですから、一方的な強制ではなく、個人の尊厳を尊重した提案であるべきです。

自由とは

f:id:cloud_mill:20180406142125j:plain

自由とは何でしょうか。Wikipediaによると

 

「自由(じゆう)とは、他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うことをいう。哲学用語。」

 

言い換えると、自分だけが自分の事を決められる、自分以外には自分の事を決めさせない、という事になるのでしょうか。しかし、「自分」を「会社」や「都道府県」「市町村区」「国家」「人類」に置き換えることもできます。「自由な人間」・「自由な会社」・「自由な自治体」・「自由な国」、これらはそれぞれ一つづつなら簡単に想像できますが、自由な存在が二つ以上ある場合には、途端に難しい話になります。そして、現実の世界においては複数の自由な存在が同時に活動しています。

 

自由とは何か、を問うた場合、多くの人は「会社や社会に束縛されずに自分のやりたいことをする」をイメージすることが多いのではないでしょうか。極端な場合には「法律も何もかも無視して好き勝手にやるのが自由」という考えの人もいます。

 

それらに対して言われるのが、「多くの人がルールを守ってこそお互いにメリットがある」「一人で何もかもやるより協力し合った方が上手く行く、その為に個人の自由は制限されるのは仕方がない」など、人間同士が助け合って生きる為に、ある程度の不自由は当然の事である、という意見です。

 

本物の自由とは何でしょうか。結論から言うと、「自由にやる」「不自由を受け入れる」、この二つの繰り返しが自由ではないでしょうか。二つ合わせて「一人で何もかもやるか、協力し合ってやるか、選ぶ自由」というのが、人間らしい自由なのだと思います。

 

現代の人間が社会の不自由を受け入れる理由は、まず「便利であるから」です。法律もルールも、効率的な社会で多くの人が豊かに幸せに生きる為にあるものです。一方で、間違った法律やルールを変える時には、どう変えたら正しい決まりになるのかを考えるのは人間です。法律やルールを変える以上は、法律やルールに縛られたままではおかしい事になります。「法律やルールを変える」という作業は、「自由に判断できる人間」でなければ不可能です。

 

世の中には「完全な自由」は存在しません。しかし、「完全な不自由」はあり得ると思います。「不自由を拒否して、自分の欲望以外には自分を支配させない人間」は、自分の欲望が満たされない限りは自分の欲望を満たそうとし、邪魔者は全て敵として攻撃せざるを得ません。自分が絶対に不自由を受け入れられない以上は、自分の欲望を否定する人と折り合いを付けるのは不可能だからです。その内に他人と協力することに対する関心がなくなり、最悪の場合には「働く」という選択肢は完全に消え去ってしまいます。すると、「働いている奴より俺は自由だ」という歪んだ優越感に囚われて、「(自分は社会を馬鹿にしているのに、)自分を馬鹿にする社会は許せないと感じる」などと考える、想像を絶する人物に成り果ててしまう危険性もあるでしょう。そう考えると、「完全な不自由」とはどんな物かが、輪郭だけでも想像できるのではないでしょうか。

 

社会に生きる人の大多数は、社会と何かしらの折り合いを付けて生活するのが大事だと考えているようです。「不自由」があるから「自由」の大事さが分かる、「自分の欲望に引きずられない自由な生き方」が出来るのだと思います。

精神障がい者の職域開拓が社会を変える

f:id:cloud_mill:20180301150452p:plain

最近、国会では「ホワイトカラーエグゼンプション」が話題になりました。報道の内容としては、議論のベースとなるデータが正確ではないという事でネガティブな報じられ方をしましたが、働き方の多様性を模索する動きは今後も加速していくでしょう。

ダイバーシティ」「インクルージョン」「ノーマライゼーション」などの概念が広まりつつある中、障がい者・マイノリティ・貧困層などについても、「働き方改革」は重要な意味を持っています。現在は健全な社会参加を妨げられている人たちにとって、社会参加の機会が多くなれば苦境を乗り越えるチャンスも多くなります。その為に目指される取り組みの一つとして、社会全体での職域開拓が必要です。

実際に、CSRcorporate social responsibility 企業の社会的責任)という考え方から、様々な取り組みが行われています。厚生労働省による法定雇用率の引き上げが行われ、最近の景気動向が良いという事もあり、障がい者を積極的に雇用する動きが増えていっています。成功事例の報告も多くなっていますが、今なお職域の狭さの問題や職場定着に向けた課題も増えています。

 障がい者の生産年齢人口は324万人で、その内で就職しているのは49万人とされています。数を考えると、これからも就職する障がい者は増えていくのは間違いありませんが、一方で発達障害を含む精神障がい者など、新しいタイプの障がい者もいます。身体障がい者や知的障がい者のようにノウハウの蓄積が無く、障がいの状態も外から分かりにくい精神障がい者は、医療的にも発展途上の状態であり、その支援の仕方について試行錯誤しながらの取り組みになっていくと思われます。

そこで問われるべきは、「障がい者が社会で働く必要性」の認知です。その主体は障がい者であると同時に、社会も主体になります。労働者と使用者で互いにメリットがあってこそ職業生活は持続するので、雇用される雇用するという形式以上に、企業(または官公庁)の生産性に寄与してこそ、本当の社会参加と言えます。

近年、パソコンやスマホなどのIT技術の進歩と普及により、障がい者にとって仕事をするハードルが下がっています。また、農福連携などの取り組みが進み、障がい者の職域が広がっていく可能性は高いでしょう。障がい者の社会進出が進むことにより、障がい者QOL(生活の質)が福祉に依存しきりでない自立により支えられ、企業にとっては労働者を確保する機会が増えるというメリットがあります。これらを実現する為には双方の努力が必要不可欠ですが、実現する事による社会的な利益は大きなものになります。

企業が雇った障がい者に対して合理的配慮をすると共に、障がい者もビジネスや業務に耐える人材として積極的に仕事を学んでいき吸収する心構えが必要です。一人の熱意一社の理念が社会を変える力として認識されれば、世の中に良い影響が波及していくという「良い連鎖」に繋がっていくと考えます。

楽しい仕事とは

楽しい仕事とは何でしょうか。仕事と見返りはセットですが、多くの人がイメージするのは「お金がもらえる仕事」です。ですが、「お金がもらえない仕事」もあります。最たるものは家事、他には社会貢献やボランティアなどがあります。

 

お金でペイしないからと言ってもやる必要を感じられる仕事なら、やりがいを感じる人はいます。家族のために家事をする、マンションの管理組合で役職を持つ、災害があった時に被災者を助けにいくなど、目に見える成果や責任感がある事で、人は楽しく働けるのだと思います。

 

世の中で働いている人の多くは、生活の必要として給料の貰える仕事に従事します。あるいはやりがいを感じるとか、社会に必要とされているという責任感で仕事を選ぶ人もいます。大人として仕事をするのは当然、能力を発揮して人の役に立つのが楽しいなど、インターネット上でも様々な意見があります。

 

しかし社会の中で、体調を悪くしたり向かない仕事で無理したりして、いったんは就職しても働くことに挫折する人達がいるのも現実です。ひきこもりやニートが社会問題になっていますが、各人が抱える理由や事情は同じではなく、ステレオタイプ的に怠け者として切り捨てるのは社会として無責任です。

 

効率重視の社会が始まったのは、イギリスで産業革命が起こってからだと言われています。多くの問題が持ち上がって解決が図られてきた歴史はありますが、産業革命当時の人間を取り換え可能な部品と考える悪い文化は、現代の日本でも見受けられます。給料をちゃんとくれるなら効率重視で構わないという人もいますが、人格を否定されてまでお金なんか欲しくないという人もいます。仕事=お金、という考え方は、万能ではないと考えざるを得ません。

 

考え方を逆にして、お金を期待しなければ楽しさ優先の働き方もありえるのではないでしょうか。それぞれの能力や希望に合わせた仕事を社会が提供して、本人にとってやりがいのある仕事があれば、本人だけでなく家族や地域のQOLも上がります。それをきっかけにして就職に繋がる実績を得たり、社会の変化に置き去りにされる事を防ぐ効果も期待できるでしょう。

 

お金は所詮は物ですから、人間のプライドを本当には満たしません。お金以外にやりがいを見つけた時に、本当の社会参加を果たせるのではないでしょうか。

『嫌われる』という現象について

嫌われる、とはなんでしょうか。

 

thesaurus.weblio.jp

蛇蝎のように嫌われる  忌み嫌われる  忌避される  爪弾きにされる  タブーにされる  タブーとされる  タブーと見なされる  蛇蝎のごとく嫌われる  毛嫌いされる  嫌悪される  嫌悪感を抱かれる  目の敵にされる  つまはじきにされる  ひどく嫌われる  嫌がられる  疎まれる  遠ざけられる  嫌われる  煙たがれる  避けられる (上記リンクより引用)

 

類語を調べると、色んな言い方があるようです。例えば、「蛇蝎のように」「嫌悪される」「忌み嫌われる」など、厳しい表現があります。これが人間関係であれば、いずれの言葉でも、信頼関係が成り立ちにくいか破綻しているように思えます。

人間関係における原因として、気持ちが悪い、迷惑をかけられる、不愉快である、薄気味悪い、など、「一緒にいたくない人物」とみなされると、いわゆる「嫌われる人」になるようです。

「蛇蝎のごとく」という言葉に着目すると、「動物のように、自分の感情や都合だけが生活の全て」というような場合が、一番顕著に嫌われるのだと思います。具体的には、「ストーカー」のように、相手の意思に関係なく自分の欲求や都合を絶対視する人が、典型的ではないでしょうか。「彼女はツンデレで、僕の事を本当は好きなのに上手く意思表現できないから、教えてあげなくてはならない」などと、相手の意思を自分の都合のいいように捻じ曲げて自分を顧みない人になると、周囲は彼を同じ人間と思わなくなる、それが「嫌われる」という現象の一つの構造ではないでしょうか。

最近では人間関係を理由にした離職が注目されています。人間関係という理由を大まかに考えると「職場に嫌いな人がいた」「職場で嫌われた」という二つが大きいように思えます。職場とは事業に貢献する目的を同じくした人が集まる場であり、友達同士の集まりとは違う場です。半ば公共の場所である職場で、マナーや道徳を弁えない人が働き続けるのは難しく、いくら能力があっても職場の紐帯に傷を入れる事が多くなるでしょう。

誤解が原因で職場に居づらくなるというのもよく聞く話ですが、あまりにも誤解が立て続くようであれば、自分自身に何らか原因を求めるのも必要なのかもしれません。少なくとも「マナー違反は犯罪ではないから許される」という考えは軽蔑の対象となっても仕方がない事です。「薄気味悪い人物」を言い換えると、「理解不可能(理解したくない)な人物」と言っても過言ではありません。そういう人間が、自分自身についてどう考えているのか、想像するのは大変難しい事です。おそらくは自分に対して無批判なのだろうと推測する以上には理解し難い所です。

現代社会は、物質的に大変に豊かになりました。「衣食住足りて礼節を知る」という言葉を、今一度考えてみる必要があると考えます。

LGBTのQOL(性的マイノリティの生活の質について)

LGBT(性的マイノリティ)の概念が世に広く知られるようになって、久しくなります。未だに差別や偏見が根強いとされていますが、一方でLGBTが加害者となる性的暴行や、同性に対するセクハラ紛い、あるいは失礼な態度など、LGBT側に道徳や倫理・マナーが欠けていると言わざるを得ない事件も広く認知されるようになりました。

QOLというのは、社会が個人に対して一方的に与える物ではありません。個人が自らの個性によって望む生活を得る事が、必要不可欠です。

特に人権という仕組みの中でQOLを高める為には、社会貢献により良い社会作りの実現に参画する必要があります。人権とは万人が万人に対して保障する権利であり、約束です。LGBTに限らずマイノリティ全般において、差別を無くす、偏見を払拭するという目的を目指すためには、「自らが担う義務を自由に選択し、人間として基本的人権の根拠となる主権者たり得る」という矜持が必要です。特に、マイノリティなセクシャルが病気ではないのであれば、まず第一に正すべきは、道徳・マナーを身に付けるという次元であると考えます。

性的な醜聞は何もLGBTなどに限らずあります。セクシャリティとして最も多い異性愛者については言うまでもなく、「恋愛の自由」を標榜して聞くに堪えない事件を多く起こしています。不特定多数との性的交渉は性病拡散や望まぬ妊娠のリスクを上げ、道徳的な頽廃と同時に医療保健の分野における問題の温床となっています。同性愛者においては妊娠のリスクはないとしても、独特な性交渉の方法による性感染症の蔓延が異性愛者よりも高いリスクがあるとされています。「妊娠しないからコンドームは不要」という浅はかな考えが背景にあるという判断をしても、的外れではないでしょう。

LGBTに対する差別偏見の根強さや嫌悪感は、LGBT自身にも責任を帰するべき部分があると思えます。その要因の一つとして、例えば「LGBTによるLGBTの為のLGBTが呼び掛ける道徳」というような発想、または「LGBTが提案する道徳と人権へのコミット」という運動が無いと思えるほど、LGBT自身の義務と道徳について論じられる事はありません。

人権とは何か、繰り返しになりますが「自らが担う義務を自由に選択し、人間として基本的人権の根拠となる主権者たり得る」と私は考えます。今現在のLGBTの状況について、あまりにも「LGBTの人権」というのが片務的に強調されていて、LGBT自体がLGBTのあるべき振舞いについて何かを考えようという機運が無いのは、LGBT愛玩動物に等しい存在にしてしまうでしょう。

誤解が無いように言えば、LGBTは真っ当な人間である、そこに異論はありません。ですが、総じて道徳の欠いた人間でないかどうかは分かりません。今後においていつまでも同じではないでしょうが、マジョリティが一方的に与える人権が正解とは、釈然としない所です。

話は尽きない所ですが、続きは次の機会にしたいと思います。

法律が無ければしてもいい、処罰されなければ大丈夫という考え方

社会には、浅ましい考え方をする人が多くいます。中でも目立つのが「法律が無い、法律に違反していない、法律を無視しても処罰されない、現在の法律では処罰できないからOK」という、考え方です。例えば、フリマサイトで現金を売る、著作権者に無断で作品をインターネット上にアップロードして営利利用する、政治家に対して「死ね」などと暴言を吐く、消費者向けの商品を買い占めて転売する。これらは現代社会の価値観にそぐわない事だと思います。

 

法律だけを善悪の基準にしてしまうのは、とても危険です。法律とは過去に起こった出来事を根拠にして定められる場合が多いですが、人間は現在に生きています。人生はマニュアル通りにいかず、往々にしてイレギュラーな事態が発生します。その時に目先の利益に釣られて「犯罪にはならないし良いだろう」という考えでは、ある意味で動物にも等しいような存在として見られるかも知れません。実際に、そういった言動で社会的信用を失う人や団体は多くあります。最近では、相撲協会漫画村・転売屋・社会運動家など、法律違反ではないにせよ常識や道徳を欠いた不祥事で信用を落としたりしますし、また未来において刑事事件や民事事件・社会的制裁が有り得ないとは言い切れません。その言動に不愉快さを感じたり迷惑を被る人が増えれば、法律ないし不法行為として痛烈な社会的制裁を受ける可能性は高くなります。

 

また、心肺停止した女性にAEDの処置を行う為に服を脱がせた男性が強制わいせつで訴えられる、というデマがツイッターを中心に広まりましたが、これに対して意見を表明した人の多くは「法律の方がおかしい」と考えたようです。実際の法律の運用としては、救命行為として認められる場合に強制わいせつの要件は満たさないという見解を述べる弁護士が多いようですから、現実において何らかの処罰があるわけではありません。

 

障がい者の就労の現場では、昨年から「就労継続支援A型事業所」について、厚生労働省による大きな方針転換があり、話題になりました。補助金目当てで設立された存在意義の無いA型事業所が大変に多かった為に、厳しい指導が入りました。これは「法律で処罰されない」という考えに基づいて数年に渡って蔓延していた問題で、現場を知っていればもっと早く対応できたのではないかと思います。常識的に考えておかしい話が、必ずしも法律で規制されているとは限らないという、典型的な事例です。

 

善悪という観念は、人間らしさを考える上で重要だと思います。社会に生きる上で、自分で決断しなければならない局面において、必ずしも法律が何とかしてくれるわけではありません。法律はドラえもんではないのです。22世紀の法律でなら解決するかもしれませんが、私たちは21世紀に生きる人間ですし、民主主義社会では法律に対して最終的な責任を持つのは国民です。21世紀の法律は現在に生きる私たちが決めるのであって、天や未来から法律が降っているのではないのです。

 

何事にも、浅知恵で生きている自分が賢いと思い込んでいる人はいるものです。上辺だけ取り繕って、本質を何も分かっていない、自分を疑って反省する習慣のない人は、いずれ周囲にとっては関わってはいけない人になるでしょう。人間は法律の奴隷ではありません。そういう人にならないよう、気を付けたいものです。